【終戦の日におもう】

8月15日を平和の日とするにはいつも違和感があります。。日本は昭和20年のこの日にポツダム宣言を受託して、無条件降伏をしました。つまり平和が訪れた日ではなく、単純に日本人にとっては戦争に敗北した日という意味です。

当時の世界大戦は帝国主義の列強国の戦いです。勝者は敗者の領土や権益を得るウィナーテイクスオールです。そのため、敗戦国である日本は戦後の占領期を経て、米軍基地が未だに日本に存在しています。日本では、自衛隊は専守防衛に徹する一方、駐留する米軍は先制攻撃が可能である、という矛盾を一国に共存させています。

このコロナ禍で思うのは、大衆を扇動させようと言う政治的な思惑、メディアの偏在的な嗜好はつねに存在しているということです。

20世紀の全体主義的な政権は民主的なプロセスによって作り出されています。世界初の民主主義的な憲法と呼ばれたワイマール憲法下で生まれたヒトラー政権、日本の翼賛体制も当時の普通選挙を経たものです。

また日米開戦を支持したメディアには朝日新聞でさえ含まれることはよく知られています。開戦当時の首相、東條英機の家にはギリギリまで対米戦をおこなわなかったことを批判する手紙が何通も届いたと言います。つまり何が言いたいかというと、独裁体制や戦争の開始には常に国民の賛成やプレッシャーがあったことです。国や軍部が暴走して開戦にいたった、というのは一面的な見方であり、当時戦争を賛美したのは大多数の日本人であったことを忘れてはいけません。

あやまちは繰り返さない、その本当の意味は平和を何の考えもなく願うのではなく、戦争の引き金を引く存在に、私たち自身もなりうることを知ることです。人もメディアも一つの目標に向かって、反対意見は許さず、排他的な社会を構築していった。それは今の時代にも十分に起こりえることです。国を変えてしまうほどの出来事は人々から始まっている。この事実を無視する限り、あやまちは何度でも繰り返されます。

この国はいま分断の危機に瀕していると思います。多様性やダイバーシティと口では言っても本当にそれは得難いものだと感じます。いつでも私たちは他人を排除する力を持っていますし、今もそれは起きています。コロナ感染が拡大しているのは、「オリンピックをやったからだ」とか「そんなものは無関係で勝手で出歩いてる意識の低い人間の仕業」とか「菅政権が悪い」とか言ってはいませんか。私はそれらはいずれも不正確な意見であると思います。

たとえば日本がこれ以上個人の行動を制限するには、法を作り、人の行動を押さえ付けて、基本的人権を制限することになります。そうなると私たちは自らの手で自分たちの自由を奪うことになります。いま、感染爆発が止まらないのは日本の法制度では人の行動を止めることが出来ないためです。総理大臣にもそんな力はないのです。ロックダウンというのは事実上、お願いでしかありません。政権の支持率が低下するほど効果も薄れます。

政治とはリーダーシップをとり、人々を導くことであると思います。しかしそれが機能不全をおこしている場合には、一人ひとりが賢くなって行動する以外に途はないと思います。私たちはある意味で自由なのです。良い意味で解釈すると、国は何もしてくれない、自分のことは自分で守る。悪い意味で考えると、自分の自由を謳歌して何が悪いのか、どう行動するのも自己責任、となります。どちらも間違っていないけれど、世の中はこの二極化する自由のあり方に道標を示せていないのです。本来はそれは政治的リーダーシップの役割です。

コロナの変異株であれば、テレビの情報はおおよそ正しく啓発的です。しかし、そう言った裏ではテレビ局の局員が早朝まで酒の席でどんちゃん騒ぎして、救急車で運ばれて医療に負担をかけています。コロナは危険だ、そう言っている当の本人たちも実は本気ではそう思ってはいないのです。これは戦争を賛美し発行部数を伸ばしていた時代のメディアから全く進歩していません。

政治家があてにならないなら、メディアも同じです。誰かにすがるのではなく、自分が賢くなるしかありません。それが今の時代における、失望の正体であり、個人主義の源泉です。

ただ矛盾して聞こえるかも知れませんが、私は選挙にはいくべきだと思います。政治への危機感が広まるほど、一般論として、投票率は高まります。国際社会を見ると政情不安定な国と投票率は高い相関関係を持っています。投票率が高い、というのは一見して良いことのように思いがちですが、それは国が危機に瀕していることの裏返しです。有権者一人一人が懸命に物事を考えるからです。次の日曜日の横浜市長選が一つのバロメーターになり、その後は国政選挙が近づきます。終戦の日に寄せて、一人一人の考えが、日本を良い方向に導くことを願います。